京都市右京区嵯峨釈迦堂門前南中院町にある宝筐院(ほうきょういん)の紅葉です。
2015年11月26日訪問、撮影です。
ここは本来はもう少し後に行こうかと思っていましたが、
今年の紅葉不作の影響、および他の場所の見ごろが大きく遅くなり、
後の日程がつまっている為、本日拝観・紅葉狩りに出かけました。
また、良い感じの雨が降った為、散りもみじを期待して本日にしました。
9時開門ですが、8時20分頃に到着で一番のりでした。
例年はもっと鮮烈な赤色になるようですが、
今年は色とりどりの淡いグラデーションもみじになっています。
心和む色合いのもみじで、これはこれで綺麗です。
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『宝筐院(ほうきょういん)』の説明
臨済宗。
山号は善入山。
平安時代に白河天皇により創建。善入寺と名付けられる。
南北朝時代になり夢窓国師の高弟の黙庵周輸禅師が入寺し、
衰退していた寺を復興して中興開山となった。
室町幕府の大将軍足利義詮(よしあきら)は、黙庵に帰依し、
師のために善入寺の伽藍整備に力を入れた。
寺の位置は『応永均命図』(室町時代前期の嵯峨地域寺院配置図)
によると現在地と変わらない。
貞治六年(1367年)、義詮が没すると、善入寺はその菩提寺となり、
八大将軍義政の代になって義詮の院号の宝筐院に因み、寺名も宝筐院と改められた。
正平三年・貞和四年(1348年)正月、
河内の国の南朝の武将である楠木正行(まさつら)は四条畷の合戦で高師直の率いる
北朝の大軍と戦い討ち死にし、黙庵はその首級を生前の交誼により善入寺に葬った。
後にこの話を黙庵から聞いた義詮は、正行の人柄を褒めたたえ、
自らもその傍らに葬るように頼んだという。
明治二十四年(1891年)、京都府知事北垣国道は小楠公(楠木正行)遺跡が
人知れず埋もれているのを惜しみ、これを世に知らせるため、
首塚の由来を記した石碑「欽忠碑」を建てた。
書院から本堂の周辺は白砂・青苔と多くの楓や四季折々の花木からなる
回遊式庭園が広がり、晩秋初冬にはみごとな紅葉をみせる。
(「宝筐院 白河天皇開創 楠木正行・足利義詮両菩提所しおり」より参照)
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(※後日、日時設定は撮影時に戻します。2015年11月26日 09:00)