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京都奥嵯峨の煌びやかなもみじ 常寂光寺 紅葉

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京都奥嵯峨の紅葉名所の常寂光寺の色とりどりの美しい紅葉

京都市右京区嵯峨小倉山小倉町にある常寂光寺の紅葉です。

2015年11月20日訪問、撮影です。

今年は紅葉不作の年であり、完全に色づかないもみじや、枯れたり傷んだりする葉が目立ちます。
しかし、例年後半に見ごろをむかえるここ常寂光寺のもみじは、
色づきは例年より薄いかも知れませんが持ちこたえてくれています。

前半の紅葉は厳しい状態でしたが、後半の紅葉にはまだまだ望みが出てきました。

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『常寂光寺(じょうじゃっこうじ)』の説明

山号は小倉山。
本尊は十界大曼荼羅。
開山は究竟院日禛日禛(くきょういんにっしん)上人。

十六世紀末に本圀寺(ほんこくじ)十六世の日禛がこの地に隠棲したことが起こり。
元和年間(1615~24年)に同舎を建立。

日禛上人は宗学と歌道への造詣が深く、三好吉房(秀吉の姉婿)、瑞竜院日秀(秀吉の実姉)、
小早川秀秋(木下長嘯子(ちょうしょうし)の実弟)、加藤清正、小出秀政、
その他京都町衆の帰依が多かったと伝えられる。

当時歌人としても著名な日禛上人に、歌枕の名勝小倉山を隠棲処として提供したのは、
角倉栄可と了以であったといわれる。
その後の慶長十一年(1606年)、了以の大堰川浚鑿(おおいがわしゅんさく)工事が行われると、
日禛上人は備前伊部(いんべ)の妙圀寺末檀家である瀬戸内水軍の旗頭、来住(きす)一族に書状を送り、
熟達した舟夫の一団を招いて了以の事業を支援したとされる。
これが保津川下りの濫觴(らんしょう)、始まりとされている。

寺名は閑静な小倉山の地に常寂光土の趣きをもつことに由来する。
また、藤原定家の歌「忍ばれむ 物ともなしに 小倉山 軒端(のきば)の松ぞ なれてひさしき」
にちなんで軒端寺とも呼ばれる。

仁王門は、もともと本圀寺客殿の南門であり、貞和年間(南北朝時代)の建立である。
元和二年に当山へ移築され、文政八年と昭和五十一年に解体修理を施し、今日に至っている。
仁王像は丈七尺、若狭小浜の長源寺より移築されたものであり、運慶の作と伝えられる。

本堂は、二世通明院日韶(にっしょう)上人が、
慶長年間に小早川秀秋の助力を得て桃山城客殿を移築し造営したとされる。

多宝塔は、二世日韶上人代の元和六年(1620年)の建立で重要文化財。
辻藤兵衛尉直信という京都町衆が大檀那(おおだんな)として献じたものである。

(「増補版 京都・観光文化検定試験 公式テキストブック」および
 「常寂光寺しおり」より参照)
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≪後日、更新・アップいたします。≫


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